2.墳墓を飾った兵馬俑や鉛釉陶器
青銅器の影響下を受けたやきもの
殷(いん)代中期から鋳造(ちゅうぞう ※1)され始めた青銅器は、その後西周から春秋戦国時代(前770~前221)を通して文化の中心的存在となり、後漢末までやきものは主に銅器でつくられていました。
当時の王侯や豪族ら権力者のために、饕餮文(とうてつもん)という細かな施しを取り入れた浮き彫り文様の祭器など、さまざまな青銅器がつくられましたが、やきものはそれらの器形や文様を忠実に模しており、日常生活用器には主に紅陶や灰陶が焼かれていました。
少数ではあるものの、一部、黒陶の鬲(れき -煮炊き用三脚鍋)・壷・鉢・盉(手付水注)などもつくられ、作品の出来栄えが優れています。戦国時代、小国であった中山国の王陵からは金属器、玉器(ぎょくき)の副葬品と共に、50cmを超える黒陶大壷が発見され、金属器と見間違えるほどの色艶があったといわれています。
戦国時代には加彩灰陶(かさいかいとう)も出現しています。青銅器を模した器形の表面に白土を塗り、絵具で美しい文様が描かれた装飾陶器で、秦漢時代に多く生産されていました。陝西省(せんせいしょう)西安市郊外の秦の始皇帝陵から出土した壮大な兵馬俑(へいばよう)の一群は、絵具がはげ落ちてはいますが加彩灰陶です。
※1)鋳造(ちゅうぞう)
金属を熱でとかし鋳型(いがた)に流し込んで器物を作ること。
【画像:饕餮文】
【画像:加彩灰陶】
【画像:兵馬俑】
鮮やかな鉛釉陶(えんゆうとう)器
戦国時代に始まったといわれる鉛釉陶(えんゆうとう)は、前漢時代に開花し、華北を中心に広い地域で焼かれるようになりました。高温で焼く灰釉陶に比べ、700~800度の低温で溶ける鉛を溶媒剤(発色剤を溶かす材料)として用い、発色剤に銅を使う緑釉陶、鉄による褐釉陶が焼かれました。
器形は青銅器を模した鍾(壺)、鼎(てい - 三脚釜)、鏡を入れる奩(れん)、穀物入れのきん、家屋や望楼などの建物、動物といった生活に即したもののみで、厚葬の風習により墓に副葬する明器として使われました。この鉛釉陶はのちの唐三彩(とうさんさい)の母胎となるなど、画期的なやきものでした。
江南の浙江省(せっこうしょう)地方では、殷代に先駆けをみる灰釉陶(原始青磁)が、春秋戦国時代を通して長く焼きつがれました。寧波(にんぽー)市や上虞(じょうぐ)県などの後漢時代の窯(越州窯)から青磁や黒釉磁が出土しており、後漢末になって青灰色に発色した青磁が誕生し、三国時代以降、盛んに生産されていたことが分かります。
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