3.新しいやきもの造形が誕生
江南地方のやきもの
華北に魏、江南に呉、四川に蜀が台頭したいわゆる「三国時代」に入ると、魏の薄葬礼(はくそうれい - 葬儀や埋葬施設を簡素にせよ、という令)により、華北で隆盛を誇っていた鉛釉陶(えんゆうとう)は衰退しました。
一方、浙江省(せっこうしょう)を中心とする江南地方では、原始青磁から発展した「青磁」が、西晋時代にかけてさかんに生産されるようになりました。浙江省地方は戦国時代、越の国であったため、この地域の窯を総称して越州窯(えっしゅうよう)といいますが、日本では三国、西晋、南北朝時代までの越州窯の製品を「古越磁(こえつじ)」と呼び、唐や宗時代のものと区別しています。
古越磁の造形
「古越磁(こえつじ)」は青銅器の影響を受けず、新しい造形が見られます。とくに神亭壺(しんていこ)、盤口瓶(ばんこうへい)、天鶏壺(てんけいこ)は特徴的です。
神亭壺は壺の上部に楼閣、人物、鳥獣などの彫塑像を貼り付けたもの、盤口瓶は口縁部を盤状につくった長頸壺で、この盤口瓶の肩に鶏頭形(けいとうけい)のつぎ口(注口)と把手(とって)を付けたのが天鶏壺です。これらは副葬用の明器としてつくられ、青灰色か青褐色に焼きあがっています。
青磁の窯は西晋、東晋から南朝時代には江南一帯に広がり、日常生活器や動物をかたどったものがつくられ、印花(いんか - 型押しでほどこす文様)・画花(かっか - 刀でほどこす線彫り文様)・貼付(はりつけ)などの技術を用いて装飾されました。
青磁の他にも黒釉磁の双耳壺・天鶏壺・合子(小さな蓋物)なども焼かれ、これらも貴族用の明器です。後漢時代から続いた越州窯青磁は、西晋時代に頂点を極めましたが、徐々に造形力が低下し、装飾法も簡略になり、衰退していきました。
華北のやきもの
439年、華北では五胡十六国の乱世を北魏が統一し、洛陽を都にした孝文帝(こうぶんてい)の時代に仏教が栄え、仏教美術が開花しました。厚葬(こうそう - 手厚く埋葬すること)の風習が復活し、緑釉や加彩灰陶(かさいかいとう)の人物俑や動物などの明器が多くつくられました。
やがて北魏は東西に分裂しました。
北周はやきもの不毛地帯となりましたが、北斉となる地には青磁の生産が始まり、外来文化である西域文様の影響を受けた蓮弁文(れんべんもん - 蓮の花弁をあしらった連続文様)・唐草文(からくさもん - 植物の茎やつるに、花、葉、実などがついた連続文様)を器の表面に貼り付ける装飾法が流行しました。
【画像:青磁神亭壺】
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