5.世界に広がった華麗な三彩陶(さんさいとう)

唐代貴族を魅了した色彩


「唐(とう)」王朝では中央集権体制がしかれていました。唐三彩(とうさんさい ※1)の優品の多くが洛陽や西安郊外の貴族層の墓から出土していることから、貴族を中心とした官僚や武官たちは、長安(ちょうあん - 現在の西安付近)と洛陽の2都市に集中し、自分たちが亡くなってからも栄光を保持しようと、立派な墳墓をつくって絢爛豪華な副葬品を埋葬したと考えられています。

唐三彩の出現は7世紀はじめ頃と推測されています。消長を繰り返した漢時代の鉛釉陶(えんゆうとう)が、唐時代になって華麗な装飾美を生み出しました。
施釉(せゆう)技術が工夫され、緑・褐・白・藍(あい)などの色釉(いろぐすり)を巧みに掛け合わせたり、型抜き文様を貼り付ける技法なども発展を見せました。

 器量には武人俑(よう)・騎馬俑・舞楽俑・馬・駱駝・家屋のほか、壷(つぼ)・瓶(へい)・水注(すいちゅう)・盤・碗(わん)・燭台(しょくだい)・香炉など、じつにさまざまな生活の側面を反映するものが見られる。則天武后(そくてんぶこう)(在位六九〇~七〇五年)の時代には大量に生産され、八世紀前半の盛唐期に頂点に達した。とくに洛陽に近い河南(かなん)省鞏県窯(きょうけんよう)では、優品がもっとも多くつくられている。

 八世紀後半、安史(あんし)の乱(七五五~七六三)を契機に中央集権体制が崩壊し始め、貴族の時代は終わりを告げる。唐三彩は急激に衰退していき、晩唐期には地方で続けられるだけになった。


※1)唐三彩(とうさんさい)=三彩陶
中国唐時代に焼かれた、白地に色のついた釉 (うわぐすり) で文様を表わした陶器のこと。緑・白・黄・茶・赤などのうち、三色の取り合わせで彩色されている場合が多いので、このように呼ばれています。各種容器、人物などがあります。像奈良三彩はこの手法が伝来したものと言われています。



唐三彩の波及と遼三彩


唐の文化は海外にも影響を与え、盛唐期の三彩陶は朝鮮半島、日本やイスラム地域にも伝わりました。

8~9世紀、朝鮮半島では新羅(しらぎ)が渤海(ぼっかい - 国名(現中国東北部から朝鮮半島北部))も同じ時期に三彩を摸倣してつくり、9世紀にイスラムでも三彩が模倣されました。

日本には遣唐使たちによって多くの盛唐期の三彩陶が運ばれ、奈良時代の貴族を魅了し、8世紀前半には奈良三彩が開花しました。日本にもたらされた唐三彩として、福岡県や奈良県の寺院祉(し)、官衙(かんが)遺跡から多量の瓶や合子(ごうす)、箱型枕(まくら)・碗(わん)などが発見されています。残念ながら人物俑や動物の純然たる明器(めいき)は発見されていません。

モンゴル系遊牧民の契丹(きったん)族が現在の中国東北部に興した遼(りょう)(916~1125年)では積極的に唐文化を取り入れ、5代・北宋(ほくそう)代の陶磁器を輸入しました。自国でも独特な形の鶏冠壷(けいかんこ ※2)をはじめ長頸瓶(ちょうけいへい)・鳳首瓶(ほうしゅへい)などをつくり、11世紀後半には遼三彩(りょうさんさい ※3)が花開きました。
蓮弁(れんべん)、唐草(からくさ)、魚などの型押(かたおし)文様による稜花形(りょうかがた)の皿や盤が珍重されました。


※2)鶏冠壷(けいかんこ)
皮袋形の上部に付けた把手が鶏のとさかに似ていることから。

※3)遼三彩
中国の東北部に建国した契丹族の遼で焼造された三彩陶器。


【三彩貼花文龍耳瓶(さんさいちょうかもんりゅうじへい)】


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