10.絵画のような表現を追求した粉彩

清朝初期の民窯


明末・清初の動乱期にも、景徳鎮(けいとくちん)民窯は活動していました。1656年(清朝初期)、順治帝(じゅんちてい)が発した一種の鎖国策「遷界令(せんかいれい)」が実行されるまでは、南京赤絵(なんきんあかえ)や南京染付(そめつけ)の製品が日本にも輸入されています。南京赤絵は花鳥山水を細密に描いた皿・鉢・火入(ひいれ)などの小品が多く、茶道具として喜ばれていました。

康熙(こうき)年間(1662~1722年)の民窯は、明末期の作風を発展させつつ、独自の様式美を作り出しました。
五彩(ごさい)では器表の一部を窓のように仕切り、そのなかに絵を描いた窓絵や、青花(せいか)では余白を大きくとる構成で洗練さを引き立たせる手法などが生まれます。また、主文様の周囲を亀甲(きっこう)文・丸文・七宝繋(しっぽうつなぎ)文などで隙間なく埋めつくす意匠、一幅の絵画風に表現する手法など、独特の構図により、緻密(ちみつ)かつ整然とした美しい作品などを多数生み出しました。



官窯の再建

1681年に清朝官窯が開窯しました。官窯は明代に停止されてから長い空白がありましたが、技術再建のため、民窯の熟練陶工を招き、督造官(とくぞうかん)という作陶の指導にあたる官吏も置きました。雍正(ようせい)官窯における督造官の「唐英(とうえい)」らが活躍し、その結果、康煕・雍正(1723~1735年)・乾隆(1736~1795年)年間を通じて、緻密な技巧と高い品格をもつ美しい磁器を生みだしました。



粉彩(ふんさい)と古月軒(こげつけん)

官窯で特筆すべき技法は、紅釉(こうゆう)・桃花紅(とうかこう)などの色釉磁や、明官窯でも焼かれた白磁胎(はくじたい)に三彩釉(さんさいゆう)をほどこす素三彩(そさんさい)ですが、特に際立ったのが、粉彩とその系列の古月軒(琺瑯彩(ほうろうさい))です。

康煕後半に創始された粉彩は、白磁の上に白い琺瑯(ほうろう)質の釉をほどこしてキャンパスとし、多彩の色絵を描く技法です。一般的な色絵よりも自由な描写と緻密な色彩表現ができ、絵画のような繊細な文様を描くには最適でした。

粉彩の一種である古月軒は、雍正官窯の象徴として、清朝陶磁が到達した最高の技法とも言えます。純白の磁肌に緻密な花鳥山水を描き、詩句をそえて落款を押すというように一幅の絵画を表現した繊麗巧緻(せんれいこうち)で雅趣に富む、珠玉のような絵付磁器が仕上がります。

古月軒技法でつくられた作品には、皿・鉢・花瓶などの小品が多くみられ、裏面に銘款が記されています。雍正官窯でよみがえった唐三彩の一種、イエローホーソンは梅樹文以外の地を黄色で塗りつぶしたもので、日本にも大作が伝わっています。



粉彩梅樹文皿

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