11.翡色と象嵌文様

新石器時代~統一新羅時代


約6,000年前、朝鮮半島の新石器時代に粘土紐(ひも)を貼り付けた隆起文(りゅうきもん)土器が出現し、櫛目文(くしめもん)土器から無文土器へと変化していったと推測されています。
新石器文化を代表する釜山(ぷさん)市東三洞(とんさんどん)遺跡から、日本の縄文前期~中期の土器が出土しており、北九州方面では朝鮮の櫛目文や無文の土器が発見されていることから、土器が発展する上で相互に影響し合っていたと考えられています。

3~4世紀に古代中国の灰陶(かいとう ※1)の一種である印文陶の技術が半島南西部に影響を与えたことで、高火度で焼く硬質土器が誕生しました。それらは縄目文、格子(こうし)文の赤色土器でありましたが、5世紀以降の新羅と百済では還元炎焼成(かんげんえんしょうせい)による灰青色の硬質土器が作られるようになりました。

7世紀中期以降、統一新羅では古墳の副葬品として印花(いんか)文装飾の長頸壷(ちょうけいこ)・高坏(たかつき)・合子(ごうす)・椀(わん)の他にも、四角壷・半球形扁壷(へんこ)などの変わった形の土器も焼かれ、また印花文で全面を覆った華麗な蔵骨器も豊富に製造されました。


※1)灰陶(かいとう)
中国、新石器時代から殷 (いん) 代に盛行した灰青色の土器。



高麗の象嵌青磁

953年に成立した高麗(こうらい)王朝は、中国の影響を受けながらも貴族を中心に、優雅な高麗文化を開花させました。その文化の象徴とも言えるのが高麗青磁です。高麗青磁は中国の越州窯(えっしゅうよう)青磁の影響を受け、9世紀末から10世紀初期に製作されるようになりました。初期の製品は中国の青磁に似ていましたが、次第に高麗独自の美感が追求され、美しく澄んだ青緑の青磁が生まれ、その精緻で洗練された高麗青磁は12世紀前半に黄金期を迎えました。

1123年に北宋の使節団の一員として高麗の都・開城(ケーソン)を訪れた徐兢(じょきょう)は、その見聞録「宣和(せんな)奉使高麗図経」の中で高麗青磁を「翡色(ひしょく ※2)」と称え、「天下第一」と評しています。

高麗青磁はその釉色と象嵌(ぞうがん)装飾の技法に特徴があります。表面に線刻、印刻した凹(おう)文様に白土、赤土を埋め込み、素焼きしたのち青磁釉を掛けて焼きあげると、その部分が白と黒に発色します。

12世紀中期~13世紀にかけて辰砂(しんしゃ - 還元炎で赤く発色する銅釉)によって色彩効果を高めたり、逆象嵌(文様部分を残して地を象嵌する技法)など、象嵌青磁の技術が極まりました。主に京畿道(きょんぎど)・忠清道(ちゅんちょむど)・全羅道(ちょるらど)で製作されましたが、高麗末期にはそれらの技法が朝鮮王朝時代の紛青沙器(ふんせいさき)に受け継がれていきました。


※2)翡色(ひしょく)
「翡」は「かわせみ」のこと。きれいな色をもつ美しい鳥であることから、美しさと凛々しさをイメージさせる意味。


鉄絵青磁と鉄彩手

高麗陶磁の中でも異色の存在として有名なのは「鉄絵(てつえ)青磁」と「鉄彩手(てっさいで)」です。鉄絵青磁は鉄絵具で素地に文様を描き、その上に青磁釉をかけて焼く技法です。11世紀末から12世紀に、牡丹文・唐草(からくさ)文などをのびのびと描いた素朴な味わいの瓶(へい)・水注(すいちゅう)・壷類がさかんに作られました。

青磁の最盛期には鉄彩手が生まれ、これは素地全体に鉄絵具を塗りつつ、象嵌を併用したものが多くつくられました。素地に陰刻した文様を掻(か)き落として白土を象嵌し、青磁釉をかけて焼きあげると黒地に白く文様が浮き出て、鮮やかな装飾となります。


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